「ごめんね、素直じゃなくって。夢の中なら言える」
いや、どうだろう。氷山の一角であるところの意識すらままならないのに、そのたもとに広がる膨大な無意識を随意にコントロールできるなんてことあるのだろうか。昨今、鰻が美味しすぎて絶滅するんじゃないか、みたいなことが言われて、それでもコンビニエンスとかSEIYUとか吉野家のメニューには「そんなこと知りませんけど」って感じで980とか1,280とかの数字で売ってあるので、やはりどんなに科学が進歩しても美味しくて捕まえやすい生き物は結果絶滅するのだな。これは歴史が証明していることだな。などを思いながら、やはり鰻は食べたい。夏の風物詩であるし。でも価格が高騰しているから食べないんだよね。それで実際食するという行為に迄は至らない薄ぼんやりとした欲望を抱きながら日々を過ごしていると、だんだんイメージの中の鰻が彩りも鮮やかにリアリティーを増してくる。そのリアリティーが脳のメモリを食っていることを薄々察知しながら(鰻だけに)泳がせていると、視界の端にふっ、と鰻がある。やっ!、と思い焦点を定めると、それは幻、であって…
人間の視野角って大体左右120度くらいらしいんだけど、氷山の一角であるところの覚醒した意識を向けて眺めているのは思うにせいぜい30度くらいのもので、あとはいい加減というか、そこまで意識を向けるだけのキャパシティーはないので適当に「なんかこんな感じだろう」とか「たしかこういうふうだったんじゃないか」っていうイメージを当てはめてすこぶる適当にやり過ごしているのだ。特に左右の末端の20度くらいの視野はいい加減きわまりなく意識と無意識の混濁地が、まさにそこに展開されている。エロいことばかり考えているオッサンなど、視界の端にふと裸の女が一瞬映り込むことがあるんじゃないのだろうか、とか思う。
だから普段見ている景色には実は意識のグラデーションが同時にあって、無意識と意識の濃淡が可視化されているのだなあ。見えているせいで見えないんだけど。